4. 国の誕生と古墳文化
邪馬台国の女王・卑弥呼が亡くなった後、日本ではどのような国づくりが進められたのでしょうか?今回は、各地に作られた巨大な「古墳」や、日本を一つにまとめあげた「ヤマト政権」の誕生、そして大陸から新しい文明をもたらした「渡来人」の活躍をわかりやすく解説します!
1. 古墳の出現とヤマト政権の誕生
3世紀後半から6世紀にかけて、日本各地で大王(おおきみ)や各地の有力な豪族(支配者)の墓である古墳(こふん)が盛んに作られました。この時代を古墳時代と呼びます。
① 日本独特の形「前方後円墳」
古墳には様々な形がありますが、日本独特の形として有名なのが前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)です。これは、円形の後ろの部分と、四角い前部分を組み合わせた、まるで「鍵穴」のような形をしています。当時、同じ形やデザインの古墳が全国に広まったことは、後述するヤマト政権の支配や影響力が各地に及んでいた証拠でもあります。
図1:日本独特の鍵穴のような形状をした「前方後円墳」
② 世界最大級の墓「大仙古墳」
大阪府堺市にある大仙古墳(だいせんこふん/仁徳天皇陵)は、世界最大級の面積を持つ日本最大の前方後円墳です。エジプトのクフ王のピラミッド、中国の始皇帝陵と並び、「世界三大墳墓(三大墓)」の一つとして数えられています。
図2:周囲に三重の濠(ほり)を巡らせた巨大な「大仙古墳」
③ 古墳を飾る「埴輪」
古墳の丘の頂上やその周りには、粘土を焼いて作った素焼きの製品埴輪(はにわ)が並べられました。埴輪には、人や馬、家、盾などの様々な形があり、死者の魂を守ったり、亡くなった王の生前の権力をアピールしたり、お葬式の儀式の様子を表したりする役割がありました。(※縄文時代の「土偶」と混同しやすいので注意しましょう!)
図3:人や馬などをかたどり、古墳の周囲に立て並べられた素焼きの「埴輪」
2. ヤマト政権の支配の拡大
4世紀ごろになると、近畿地方(現在の大和・奈良県)の強力な豪族たちが連合を組み、のちの朝廷のもととなる政治連合ヤマト政権(大和朝廷)を成立させました。ヤマト政権のリーダーは大王(おおきみ)と呼ばれ、これがのちに「天皇」と呼ばれるようになります。
図4:大和地方を中心に各地の豪族を従え、日本を支配した「大王(おおきみ)」のイメージ
① 鉄剣が示す支配の拡大(ワカタケル大王)
ヤマト政権は当初は近畿中心の勢力でしたが、徐々に支配地域を日本列島全体へと広げていきました。その決定的な証拠となるのが、以下の2つの遺跡から発見された鉄の武器です。
- 埼玉県の稲荷山古墳から出土した「鉄剣」
- 熊本県の江田船山古墳から出土した「鉄刀」
これら遠く離れた関東と九州の古墳から見つかった鉄器には、なんと同一人物であるワカタケル大王(雄略天皇)の名が刻まれていました。これにより、5世紀後半にはすでに、ヤマト政権の強力な支配力が関東から九州の広い範囲にまで及んでいたことが明らかになりました。
② 支配の仕組み「氏姓制度」
ヤマト政権は、従えた地方の豪族たちを支配下に置くため、氏姓制度(しせいせいど)を作りました。有力な豪族たちを血縁関係をもとに「氏(うじ)」というグループにまとめ、政権内での身分や役割を示す「姓(かばね/臣・連など)」を大王が授けて、それぞれの特権や世襲を認めながら支配を行いました。
3. 東アジアとの交渉と「渡来人」の功績
ヤマト政権は、朝鮮半島での主導権を握ったり、鉄資源を確保したりするため、中国や朝鮮半島と活発な外交を行いました。
中国の歴史書『宋書』倭国伝には、5世紀に中国(南朝)へ使いを送った5人の倭の王(讃・珍・済・興・武)が「倭の五王(わのごおう)」として記録されています。このうちの「武」が、先述のワカタケル大王(雄略天皇)のことと考えられています。また、中国の吉林省にある高句麗の「好太王碑(広開土王碑)」には、4世紀末に倭(日本)が海を渡って百済や新羅を破り、高句麗と激しい戦争を行ったことが刻まれています。
図5:中国と同盟を結び、外交を有利に進めようとした「倭の五王」のイメージ
① 新しい文化を伝えた「渡来人」
こうした朝鮮半島との深いつながりの中で、朝鮮半島や中国から日本へ移住してきた人々を渡来人(とらいじん)と呼びます。彼らは日本にはまだなかった極めて高度な技術や文化を伝え、古代日本の発展に大きく貢献しました。
図6:漢字、仏教、須恵器の製作技術、機織りなどの先進的な知恵を伝えた「渡来人」
💡 渡来人がもたらした主なもの
- 漢字:百済から来た王仁(わに)が、『論語』などを伝えたことで、日本で初めて文字が実用化され、ヤマト政権の記録などで使われ始めました。
- 仏教:6世紀半ば(538年または552年)、百済の聖明王から欽明(きんめい)天皇へ、仏像や経典が公式に贈られました。これが日本における仏教の公式な伝来(仏教公伝)です。
- 須恵器(すえき):朝鮮半島の技術で作られた、高温で焼かれた硬い灰色の土器です。それまでの日本にはなかった実用的な食器や貯蔵器となりました。
- その他:機織り(はたおり)の技術、金属加工(製鉄)、ため池を作るなどの高度な土木技術も日本に伝わりました。
🔥 テストに出る!「土偶と埴輪」「縄文・弥生・須恵器」の整理
歴史の定期テストで引っかかりやすいのが、「土偶と埴輪の違い」や「土器の移り変わり」です!以下の対比表で完全にマスターしましょう!
① 土偶 & 埴輪 の違い
| 種類 | 使われた時代 | 使われた目的 |
|---|---|---|
| 土偶(どぐう) | 縄文時代 | 女性をかたどり、魔除けや豊作を祈るため。 |
| 埴輪(はにわ) | 古墳時代 | 古墳(墓)の周囲に並べ、死者の守護や王の権力を示すため。 |
② 土器・陶器の進化
縄文土器(厚手・黒褐色・縄目・縄文時代)
⬇ (米作りが始まり、薄手で実用的に)
弥生土器(薄手・赤褐色・硬め・弥生時代)
⬇ (渡来人の技術で、さらに高温で焼かれた)
須恵器(すえき)(硬い・灰色・古墳時代に渡来人が伝来)